1920年
まだ洋装が一般的ではなかった大正時代に、「衣生活の移行こそ、新しい日本の発展と文化の向上の出発点である」と考えた二人の創立者から、文化学園の歴史は始まりました。
洋裁を広めるため並木伊三郎が開いた教授所を、同じ志でミシンのセールスをしていた遠藤政次郎が偶然訪れたのは、並木33歳、遠藤26歳の秋のことでした。
並木と遠藤は夢中で話し合い、「日本人の服装改革」の一点にたどりつき、期せずして双方の手が差し伸べられ感激の堅い握手が交わされ、誓いにも似た一致点に達したと伝えられています。
1923年
1923年6月23日、文化服装学院の前身「文化裁縫女学校」が、日本初の洋裁教育の各種学校として認可を受けました。
日本の服装教育を牽引する文化学園の軌跡は、ここからはじまりました。
1927年
現在の学園の所在地、東京府代々木山谷の土地を入手し、初の学園所有新校舎を落成。
木造2階建て、9つの教室・応接室・舎監室などを完備していました。
1934年
現在まで続くBUNKAの学生作品によるバザーは、昭和初期にはじまりました。
バザー会場は人で溢れ、市場に出回っていないアフタヌーンドレスなどは飛ぶように売れてゆきました。
当時、洋服は文化学園のバザーで買う人が多く、流行はバザーから広まりました。
BUNKAはまさに、ファッションの発生場所でもありました。
1936年
当時の日本では、『ヴォーグ』などの海外の雑誌を回し読みし、デザインの研究をしていましたが、これら追従模倣の域を脱し、服装改善と普及に努めたいという思いから、服装研究雑誌『装苑』が創刊されました。
服装デザインの他、今和次郎が「西洋服装史」を、アメリカ便り・巴里だよりでは最新モードの紹介を、その他気鋭の作家による随筆等も掲載し、総合的な身体美の発揚を目指していました。
1940年
1940年、文化服装学院は、「互尊礼譲」「滅私尽務」「創造進新」の3つの黌訓を定めました。
ここでは、互いに他を尊び、これに礼を尽くし善きを譲り、悪しきを引き受けるという精神とその実行を説き、私欲を去って自己の本務に励むことを諭し、常に新分野を開拓し常に進歩的であれとすすめています。
学生だけでなく学園関係者全てのものとするため、校訓ではなく「黌訓」と命名されました。
1947年
洋裁教育機関の育成を目指した文化服装学院は、卒業生の経営する学校の中でもふさわしい内容をもつものを本校が認定し教育を連携する「連鎖校制度」を設けました。
春夏の講習会では連鎖校の教員が各地から集まり本校教育の最新情報に触れ、1952年からは本校による巡回コスチュームショーが全国を巡り、教育研究と交流が盛んに行われました。
全国の主要都市には余すところなく連鎖校が置かれ、1965年には362校と全国的な大組織に発展した連鎖校は、日本の洋裁教育普及の要となりました。
1955年
1955年、日本建築界初の高層円型校舎が、学園のシンボルとして完成しました。
「和を以て貴しとなす」をモットーとしていた創立者 遠藤政次郎は、「円いということは、全てが円満におさまり、学校のシンボルになると思った。一つの中心があって全てが公平になり、更に中心から無限にどこまでも広がる」と語っています。
服装の殿堂に相応しい偉容に一躍東京の観光名所にもなり、落成式には15,000名が参列し盛大に挙行されました。
1958年
1958年、本場のデザインと技術を直接学ぶ機会を得るため、フランスからピエール・カルダンを招聘した文化学園は、ファッションショーと技術講習会を開催しました。
立体裁断の講習では、全国から集まった日本服装界の指導者らが、カルダンの自在な布裁きに瞠目し、学院講堂で開催されたショーでは、作品についてカルダンから丁寧な解説が付され、日本の服飾文化の向上に、大きく寄与する出来事となりました。
1973年
創立50周年を機に、学校法人名を「並木学園」から「文化学園」に改称しました。
1936年の「文化服装学院」への改称は、服装の総合教育の場にふさわしい名称を目指したものでしたが、法人名の改称には、服装のみならず文化を牽引していく決意があらわれています。
日本武道館で盛大に挙行された記念式典には14,000余名が集い、50周年に相応しい祝祭となりました。
1979年
1979年、日本では数少ない服飾専門の博物館「文化学園服飾博物館」が開館しました。
世界各地の衣装、染織資料や工芸品など、集められた約2万点の貴重な資料は、文化学園での教育・研究利用の他、展示を通して一般に公開されるとともに、国内外の研究者や文化事業の活動にも活用されています。
1989年
1989年、文化女子大学大学院 家政学研究科に、博士後期課程を開設しました。
被服学・服装学分野の博士課程はそれまで認可された例がなく、文化女子大学大学院が初めてでした。
これは、本学のカリキュラムや授業内容の充実が認められた結果であり、日本の被服学・服装学の進展にも、大きな意味を持つ出来事となりました。
1995年
1995年、相田みつをの『にんげんだもの』が100万部を突破したことを記念し、文化出版局が感謝の会を開催しました。
優しい心をやさしいことばで伝える相田みつをの「書」と「ことば」は、多くの人々の共感を呼び、人生の折々で心に響く本として、長く読み継がれています。
1998年
21世紀に向けて、国際社会に機能する教育環境を目指し、最新施設を備えた新校舎が、新しい文化学園の象徴として完成しました。
博物館やイベントホールの他、ファッションや造形デザイン等、学園の研究領域を全てキャンパスに集約した21階建ての高層新校舎は、21世紀に対応するインテリジェントビルとして、世界のファッション・文化・教育の中心的拠点となるべくその環境を整備しています。
2003年
創立80周年を記念し、コシノヒロコ、コシノジュンコ、田山淳朗、津森千里、丸山敬太ら、国内外で活躍する卒業生によるファッションショーを開催しました。
デザイナーだけでなく、舞台演出や映像など、スタッフの殆どが卒業生で構成されたショーは、ファッション産業をトータルに捉えたカリキュラムによる人材育成の成果であり、1万人を超える来賓が参列した記念式典は、盛大に挙行されました。
2023年
1927年
モダンボーイ・モダンガールの略で、大正末期から昭和初期にかけて台頭した西洋のライフスタイルを楽しむ若い男女のこと。生活スタイルだけでなく職業や価値観の変化を象徴するシンボルであり、現在のインフルエンサーのような存在でした。
1953年
1953年、全国でディオール・ショーが開催されると、瞬く間にディオール旋風が巻き起こりました。
ディオールが紹介したパリ・モードは各地で大きな反響を呼び、服装界のみならず、日本の社会全体に影響を与えました。
1966年
ミニスカートブームを巻き起こしたスレンダーな英国人モデル、ツイッギーの影響で、日本でもミニスカートが大流行しました。
1976年
60年代に流行したトラッドを基本に、海外の高級ブランドを組み合わせたスタイル。神戸のお嬢様ファッションがルーツと言われています。
1999年
明るい髪色や日焼けした肌などが特徴の、ギャルファッションと呼ばれるスタイルが流行。
ミニスカートやショートパンツなどのミニボトムに、足元をたるませた靴下「ルーズソックス」や、厚底ヒールのサンダルやブーツを合わせるコーディネートが定番でした。
100年を経て、今、また新たな100年への、はじめの「1」にいる。
文化学園が培ってきた長い歴史を表す大きな「100」
その「1」の部分の色を変えることで、
歴史を積み重ねたさらに先にある、
新たなスタートに再び立っていることを
表現したロゴマークです。
「BUNKAに関わる全ての人が、
学園の歴史と未来を誇りに思えるロゴ」をテーマに、
学生がデザインしました。
BUNKAカラーのすみれ色の糸などをセットにした携帯用ソーイングセット。
多くの学生が学んだ円型校舎をモチーフにした円型のケースは、人の輪を大切にし、「和をもって貴しとなす」を学校運営のモットーとした創立者 遠藤政次郎の思想をあらわしています。
文化・ファッションテキスタイル研究所では、希少素材や古代の染織方法を研究するとともに、現代の技術とデザイン性を反映させた独自の技術を開発し、その一部は、ニューヨーク近代美術館等に永久保存されています。創立100周年にあたり、本研究所の新技術でストールを制作いたしました。
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